2023.7.31
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まなびのみなと人生記事企画vol12 梶村さん

~小学生の時に、図書室で偉人の伝記を読んだ。偉人はすごくて、素敵な人生を過ごしていた。同じくらい私の周りにもいっぱい素敵な人生を過ごしている人がいると思う。~

これは私の周りにいる素敵な人に彼らの人生についてインタビューし、その人生を記事にしていく「まなびのみなと」の記事企画だ。第12回目は大学在学時代からまなびのみなとのメンバーであり、今年社会人になった梶村莉子さんにインタビューした。

彼女は広島県大崎上島町出身。島にある広島県立大崎海星高校を卒業後、山形県にある東北芸術工科大学コミュニティデザイン学科に進学した。この春に大学を卒業し、現在は大崎上島で暮らしながら隣の島の大三島で働き始めた。

「幼稚園の時の楽しかったことの記憶が強い」と彼女は話す。幼稚園の中にある田んぼを耕したり、干し柿を作ったり。小学校の前にある側溝にザリガニを取りに行ったこともあった。その原体験が、彼女が島を好きになった最初のきっかけだった。

彼女は幼稚園の頃から少しずつ習い事を初めて、小学6年生になる頃には週に7つの習い事を掛け持ちしていた。「家に帰って習い事に行くのがみんな趣味みたいな、島あるある」と笑って話す。島の子は3つぐらい習い事をしているのが当たり前だった。ピアノ、硬筆、陸上、水泳、茶道、サッカー、塾、毛筆。全部楽しかったが、特に印象に残っているのは水泳とサッカーだった。泳ぐことができず、幼稚園のプールの時間は泣きながら過ごした。小2になり、水泳を習い始めた。それから、竹原市との合同水泳記録会で、でリレーのメンバーとして泳いだり、自由型の100mの部で一位になったりした。参加人数が少なくて、「ラッキーだった」と彼女はいうが、同時に「続けてきて良かったな」と強く思った。

サッカーはチームに女子が3、4人しかいなかった。しかし、人数が少ないからか女子も仲が良く、学年自体も仲が良かった。チーム競技は苦手意識があったが、練習も試合も楽しく過ごせた。

性格は「超消極的だったし、よく泣いていた」と話す。両親と友達の親としか目を見て話せなかった。学校に行ってもよく泣いて先生を困らせていた。しかし、幼馴染が先生に伝えてくれたり、思っていることを言えなかった時に同級生が大人に伝えてくれた。学校の授業では、手を上げるどころか発表も一切しなかったし、小学4年生のときの二分の一成人式では発表することが嫌で将来の夢の作文を泣いて発表しなかった。中学校に上がり、勉強以外に部活、友人たちとの関係でいろいろなものに反抗するようになった。反抗心を部活のボールにぶつけた。すると先生に怒られた。本気でぶつかる私に対して先生が向き合ってくれたおかげで、自分の意見を言えるようになった。

中学3年の時、それまで通っていた塾から、現まなびのみなとの代表理事である取釜さんの私塾に塾を変えた。そこで、取釜さんとまなびのみなとのメンバーである円光さんに初めて出会う。2人から「島を面白くしよう」という思いが伝わってきた。勉強以外の「島キャリ」というプログラムで、島の面白さを実感した。ちょうど大崎海星高校で「島の仕事図鑑」の作成が始まり、もっと面白いことが始まりそうだと思った。家からも近い、島内の大崎海星高校に進学することを決めた。

「高校が結局1番楽しかった」と彼女は笑う。部活も4つ入っていたが、どれか一つを優先するのではなく、自分の行きたい時に行くペースが彼女に合っていた。また、「みりょくゆうびん局」という高校の魅力化を先生やコーディネーターと一緒に推進する部活動の立ち上げにも関わり、高校の広報活動などを行った。大崎海星高校の特徴である地域活動も、彼女が、島が好きだと改めて気づいた時から、ちょうどいろんな活動が始まった。様々なことに声をかけてもらい、参加するきっかけを与えてもらった。たくさんのことに参加してみて、「全部行って良かったと思う」と彼女は話す。高校に入ってから出会えた人の数は、他の高校生よりも圧倒的に多かった。普通なら広島の離島の高校生と大阪の高校生が関わることなんてない。今年、高校を卒業してから5年目になったが、「今でも時々連絡をとっているのがすごい」と彼女は嬉しそうに話す。先生から放課後の地域での活動の募集は当時始まったばかりで、「取り組まされている」という周囲の反応もあった。だが、「自分は行かないけど、やるなら応援するよ」という雰囲気があった。同じ学年の部活の子も、地域活動を優先させてくれ、みんなが理解してくれていた。

高校1年の終わりになり卒業後の進路を考えた時、当時の校長先生と担任の先生に東北芸術工科大学をおすすめされた。取釜さんの塾でインターンに来ていた学科の一期生に以前会ったこともあり、「行ってみようかな」と思った。高校三年の受験の2ヶ月前まで関東の大学に行くか山形に行くかギリギリまで悩んだ。広島から山形までは距離がある。近所の人や小さい時から見てくれている人からもすごく心配された。しかし、後押ししてくれたのが「地域みらい留学」の存在だった。大崎海星高校も地域みらい留学校の一つだ。地域みらい留学校の合同説明会に先生と一緒に行き、生徒募集をする活動も行なった。「地方」の熱を感じた。「地方の方が可能性があるのかなと思って」と山形に行くことを決めた理由を彼女は教えてくれた。

期待を持って入学した大学の1年目は、とにかく自由に過ごしていた。外に出る機会も多く、青森の最北端に行ったり、いろんな研修があったり、友達や先輩とも関わりを持ちながら過ごした。しかし、2年目に新型コロナウイルスが流行し、全てがオンラインになった。「何も面白くなかった」と彼女は漏らす。オンラインなりに試行錯誤したが、対面とは大きく違った。3年目になってから国や県の規制は解除され始めたが、地域の現場に実際に行って学ぶ大学は厳しかった。それでも、やっと地域の現場に行って、その地域の人に会えた時は「嬉しかった」と彼女は笑う。地域実習のメンバーとは、オンラインでチーム作りが始まったが、対面で活動を始めたときには、メンバーの性格や何が得意で不得意か分かり活動ができた。

コロナの影響で、地域実習が同じメンバー以外とは2年間ほとんど話せなかった。大学1年の時は普通に話せていた友達とも、1年間会っていなかったせいか、授業であってもなかなか話すことができなかった。しかし、卒業前の2月にあった卒業研究制作展示の準備で同期のみんなとほとんどの時間を一緒に過ごした。「卒業展示のしんどさが友達に戻れる期間だった」と彼女は振り返る。食べる気力もなく、3日に1回何か食べられればいい方だった。気づいたら16時過ぎで外は暗くなり、気づいたら23時で警備員さんが見回りに来るほど没頭していた。「あの期間は一生来てほしくないけど、あの時しかなかったんだと思うとちょっと悲しくもなる」と彼女は話す。「卒展をして、同期みんなで卒業できて良かった」と笑う。

そんな彼女の学生生活の中で欠かせない存在だったのが、中学3年の時に出会ったと話していた取釜さんと円光さんだった。「中学生の時は気づかなかったけど、大学に入って違う関わり方をするようになって、2人のタイプが真逆なことに気づいた」と彼女は語る。初めて出会った中学生のときは、島を面白くしようという思いが伝わってきたし、また既に島は面白いということを教えてもらった。高校に進学して、今まで塾で出会っていた人が「コーディネーター」として高校の授業にいることに違和感を覚えた。だが同時に、地域活動で島の人と繋げてもらうなど、「すごい人達だ」という印象を受けた。さらに、学校説明会などのために東京や様々な場所に行った時の移動時間が彼女の記憶に残っている。移動時間が多くあり、いろんな話をした。たくさん一緒に喋り、盛り上がる場面も多かった。しかし同時に、生徒だけで話が盛り上がっている時や電車やフェリーなどでの手が空く移動の時に、彼らはパソコンを開いて仕事をしていた。そのことに衝撃を受けた。大学に入学してからは、また関わり方が変化した。一時期、大崎海星高校の魅力化プロジェクトにインターンした。毎日、1時間程その日の感想を2人に話し、フィードバックがそれぞれ返ってくる。そのフィードバックが真逆なことも多々あった。その日に感じたことを踏まえて、大学卒業後に何をしようと思ったのか。円光さんには「すぐに島に帰ればいい」。取釜さんには「外に出た方がいい」。そうコメントされた。返ってきた意見は真逆だが、それを決めるのは自分だということは同じだった。同じ空間にいる2人は言い合うわけではない。「結局、決めるのは自分」ということが彼女に響いた。

就活を始めた当初は、島の外で働くことを考えていた。しかし、「実際受けていたら、志望理由が本当になかった」と彼女は語る。何がしたいかを考えたときに、「したいことは別にあるけど、島で暮らすことを最優先したい」と彼女は思った。秋から卒業までの数ヶ月間、島にあるコミュニティスペース「ミカタカフェ」でバイトをしたり、高校の寮の「ハウスマスター」を業務委託で経験したりした。人と関わることが一気に増え、島にいる意味、島で暮らすことの意味を見つけた。島に帰ることを決めた。卒業を控えた3月に入り、隣の大三島で働くことに決まった。

働くことはしんどいことも多いが、「船の帰りに夕焼けが綺麗だったら、今日も行って良かったと思う」と彼女は語る。

彼女は今年中に個人事業を開業したい。ものづくりが好きだからこそ、ハンドメイドの時間を増やして、それを極めて仕事にしたい。また、「大学で勉強したデザインも生かしたいし、写真の仕事もしてみたい」と彼女は話す。島で役立たせたいという気持ちで取得した「社会教育主事」の資格も島で活かせたらと考える。高校時代から、今はない仕事を作って自分の生き方をしてそうと言われることが多かった。将来は今はまだない、島でしている人がいないような、自分のやりたいことを全部ひっくるめた「新しい仕事を作りたい」と彼女は意気込む。

また、彼女の同級生の多くが4月になり、島に帰ってきて働いている。これまでのどの学年もこんなに多くの人が帰ってきている学年はないのではと彼女は思っている。みんな社会人になり、共通の話題が増えた。大学生だった頃は大学生も専門学生も社会人もいた。結局仲のいい人同士や学生や社会人同士で話すことが多かった。だが、今はそうではなくなり、ほとんどが20年以上一緒にいるのに新しい関係になった気分になる。月に一度集まることがあれば、幼稚園や小学校の頃のその時は何も思っていなかったことをみんなよく覚えていて、話が盛り上がる。幼稚園や小学校の低学年の原体験が大事だと改めて感じた。「せっかく島に自然があるのに関わりがあまりないのが勿体無い」と彼女は話す。将来は、島にいる子供達がそんな原体験を作れるようになりたい。また、「みんなが島に帰れる場所を作り”おかえり”と言い続けたいな」と彼女は笑って話す。

少し前まで学生だった彼女。まなびのみなとの他のメンバーに比べると「情報を持っている数が少ない」と彼女はいう。「だからこそ、違う目線で物事を言えるようにしたいとずっと思っている」と続ける。自分の意見を持つまでは時間がかかる。しかし、他の人の意見を聞きながら、これまでに出た意見とはまた別の意見を出す。「他の人が考えていないことを考える人になりたいし、なっているつもり」と彼女は語る。

「自分らしく」と「行動力」の二つが彼女を表すキーワードだという。大学の卒業を控えていた2月に彼女は47都道府県を制覇した。「自分の目で見たものを大事にしたい」と彼女は話す。コロナの影響で制限された部分も多かった大学生活だが、東日本大震災の被災地や伝承館も訪れた。島では地震も来なかったし、10歳だった彼女はテレビで見ているだけだった。被災地には何も言えない映像や、言葉が出ないこともあった。また、東北には「日本の原風景がたくさん残っていて、四季を感じられる」と彼女はいう。生活している人にとっては当たり前のことだが、旅をしている彼女から見たら、「風土を大事にしている」と感じることが多かった。また、47都道府県全てを見たからこそ、「この時のあれめちゃ良かったな」「5回も行った白川郷は何度行ってもやっぱここだな」など、いろんな思いが頭に浮かぶ。

同時に、日々暮らしている大崎上島でも毎日違う風景がある。「船に乗る」という生活の一部が、大学に出てから普通ではないと気づいた。「船に乗るってどんな感じ?」と友達に聞かれた時に、こんな風景が見れて、こんな景色の日もあるのだということを伝えられれば、友達も「行きたい」と思ってくれるかもしれない。だからこそ、「自分の目で見たものは、伝えたり、見せたりできるように大事にしたいなと思っている」と彼女は話す。

今の仕事は休みが少なく、自分の好きなことをする時間がない。だからこそ、高校生には「好きなことを好きなだけして後悔のない高校生活を送ってほしい」と話す。自分が習い事や地域活動、部活など好きなことをできた経験から関わってくれる人と一緒に、今しかない経験をして欲しい。そうアドバイスを残してインタビューを終えた。

〜終わりに〜

これまでのインタビューのほとんどが既に社会人として何年か働いている経験豊富なメンバーへのインタビューだった。大学を卒業してからほとんど間が空いてない莉子ちゃんだからこそ、フレッシュな希望に溢れたインタビューとなったと思う。

高校の時から「島が好き」だという思いが人一倍伝わってきた莉子ちゃん。そんな彼女がこれから島でどんな仕事を作るのか、楽しみだ。

【ライター紹介】

細川ますみ。東京都出身。地域みらい留学で、広島県立大崎海星高校に進学し、2020年3月卒業。現在、青山学院大学に在学中。高校時代、「みりょくゆうびん局」という高校魅力化を推進する部活動の初期メンバーとして活動した。

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