2023.8.28
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まなびのみなと人生記事企画vol13 勝瀬さん

#インタビュー記事#マイプロジェクト#ミカタカフェ#メンバー紹介#人生記事企画#地域おこし協力隊#大崎上島#教育#高校魅力化

~小学生の時に、図書室で偉人の伝記を読んだ。偉人はすごくて、素敵な人生を過ごしていた。同じくらい私の周りにもいっぱい素敵な人生を過ごしている人がいると思う。~

これは私の周りにいる素敵な人に彼らの人生についてインタビューし、その人生を記事にしていく「まなびのみなと」の記事企画だ。第13回目はまなびのみなとで、マイプロジェクトアワードやミカタカフェなど多くの事業を担当している勝瀬さんにインタビューした。

彼は東京都八王子市出身。大学を卒業するまでその地に住んだ。新卒で大手のお菓子会社に就職したのち、教育業界の会社で2年働いた。その後、大崎上島に公営塾の先生として移住し、今年で島生活4年目を迎える。

彼は小学1年生からサッカーを始めた。それまでは姉の後ろについて回る子供だった。姉が選んだお菓子を彼も真似した。そんな彼が初めて自分だけで取り組んだのがサッカーだった。「結構大きい転換期だったんだけど」と彼は話す。どんどん上手くなり、自信がついた。中1までずっとサッカーを続けた。「サッカーで人生変わったみたいな」と彼は笑う。

小学6年生のとき、サッカーチームのセレクションを受けた。しかし、オスグッドの影響もあり思っていたクラブチームに所属することができなかった。小学校を卒業し、中学校に入学するまでの間の春休みに「スラムダンク」を見た。花道がパスミスして負けるシーンを見て、花道と一緒に泣いた。中学に入学して3ヶ月ほど彼の希望とは違うチームでサッカーを続けていた。しかし、彼はサッカーをやめてバスケ部に入ることに決めた。彼の中学のバスケ部はかなり強く、有名な先生や色んな小学校で上手だった生徒がいた。「なんかかっこいいなと思って」と彼は振り返る。新しいスポーツを始めると、上手くなっていくのがわかる。それからずっとバスケに熱中した。

高校は勉強もちゃんとやっていて、バスケ部が強い学校を選んだ。しかし、そんな高校時代を彼は「暗黒、結構きつかった」と表す。東大に行くような人がゴロゴロいたし、運動神経がめちゃくちゃいい人もゴロゴロいた。挫折に近いような経験だった。勉強と部活の両立もしんどかった。「部活も勉強もやるってさ、なんか二つやるから2倍辛いじゃなくて、5倍ぐらい辛くならない?」と彼は問う。中学の時のように思い通りに行かなかったが新しいことを0から始めて楽しかった経験とは違い、入ったからには「ちゃんと両方やらなきゃ」という気持ちがあった。新しいことを始めることもなく部活と勉強だけを全力でやった。人と比べる時期だったこともあり、高校は「あんまり楽しい感じじゃなかったかも」と振り返る。

高校時代がきつかったのも、彼自身が楽しめていない感覚があった。環境のせいにもしていた。だからこそ、「1番楽しそうな大学に行こうと思って」と彼は話す。ある大学の学祭を見に行ったら、ラテン文化研究会が急に鐘を鳴らし、太鼓を叩き、そしたらそこにいる全員がサンバを踊り出す、そんな光景を見て「すげえいいなと思って」と笑う。「あそこで楽しめなかったら自分のせいだなって思えるようなところに行こう」と彼はその学祭を見て第一志望に決めた。親が教員だったこともあり、学校の先生になろうかなと教育学部に入学した。

バスケは続けようと、10個ぐらいバスケサークルを回った。その結果は「なんか面白くない」だった。コールを覚えさせられたり、上下関係が厳しかったり。どこかに入って続けるのは、高校時代のようになりそうだった。既存のサークルではなく、新しくサークルを作ることにした。

「そういうのが自分には合っているというか」と彼は続ける。0から体育館を調べた。大学の近くの体育館は借りるのも高く、一回バスケするのに3000円、4000円飛んで行く。でも、将来的には近い方が人が来るかも。そんなことを5人ぐらいで話しながら自分達で作り上げていくのは楽しかった。「作っていくのはやっぱり好きなんだな」と彼は気づいた。授業以外はずっとサークルのメンバーといて、すごく楽しかった。今では大学にあるバスケサークルの中で1番大きいぐらいのサークルにもなった。

教員になろうと、英語の勉強をずっと続けていた。大学3年の時、お金を貯めてオーストラリアに半年留学に行った。だが、いざ行ったら今までの勉強はあまり意味がなかったことに気づいた。英語以前の意識の問題で、議論が全然できない。例えば、日本は捕鯨をなんでずっと続けているのと問われても、「わかんない」としか答えられない。そんな答えられないようなことが続き、英語を教える教員になっても、日本人的なこの力を再生産していくだけだと思った。「自分が教師になって教える意味ってあるのかなと考えて」と彼は話す。それまで就職をほとんど考えずにバスケなどを続けていたが、その時初めて「やばいぞ、まずい」と思い、就活を始めた。

社会のことを何も知らないのに社会が目の前にある。自分の人生に今まで出てこなかったことをいきなり仕事にするのは意味がわからない。自分が買ったことがあるものを売ろうと思い、食品メーカーを中心に就活をした。就活に対して、多くの人が気合を入れて、勝負だと思っているかもしれないが、彼はとりあえず就活やってみようというノリで入った。

大手のお菓子メーカーに就職し、いきなり広域量販営業部に配属が決まった。「結構、とんとん拍子というか」と彼は振り返る。かなり大きい金額でお菓子を売っていた。4年程働いた後、新人教育をお願いされることが増えた。「お菓子をいっぱい売るための教育ってよくわかんないな」と感じた。クリエイティブな要素もなく、メーカー全般にいえるかもしれないがキリがない。もう一回改めて考えた時に、それまで教師は英語を教えるものだと思っていけれど、こういう社会の在り方を考えて議論するような教育ができたら面白いように思った。「もう一回先生になろうと思った」と彼は話す。

就活の時期と被っていたため教育実習に行けず、大学時代に教員免許を取れていなかった。2年で教員免許が取れることがわかり、大学に入り直した。お菓子を売りながら勉強するよりかは、教育業界に入った方がいいだろう。そんな気持ちで、大手の教育業界の会社に2年で辞めると伝え転職した。

教育業界で働いている中で、進学実績や模試の偏差値の調整のために生徒の希望よりも教育委員会や学校の希望が優先されるような現場を目の当たりにした。先生になる選択肢が揺らいだ。そんな時、マイプロジェクトアワードの発表会を見に行った。高校生の発表に感動した。想いを伝えたくて、発表しながら泣き出す高校生がたくさんいた。大人もこうやって働くべきだと思った。マイプロジェクトを推進している「カタリバ」の事務所を覗きに行こうと思い、直近のイベントに参加した。そこに、現まなびのみなとの代表理事である取釜さんがいた。地域の高校の発表がいくつかあったが、唯一取釜さんだけ、私がやっていますではなく、「生徒がやりたいって言っているから、ただそれをできる環境を整えています。それだけです。」という発表をしていた。「なんかいいかも」と惹かれた。

大崎上島に移住し、公営塾「神峰学舎」の先生として働き始めた。島に来て最初の半年は「ずっと同僚と喧嘩していた記憶しかない」と笑う。営業の癖で、自身の悪い部分でもあるが、「もっとできるんじゃないか」「何やってきたんですか、本気でやってるんですか」と飲み会のたびに言いまくり、喧嘩を繰り返した。「今思えば失礼な話なんだけど」と彼はいう。だから、最初はあまり面白くなかった。

そんな彼の転換期は島で生徒と一緒に「結婚式」のプロジェクトをしたことだった。ブライダルデザイナーになりたい生徒がおり、高校生も彼自身もできるかわからないが、「高校生がやりたいって言っているから」とまだ結婚式を挙げていなかった当時の寮のハウスマスターに協力してもらい結婚式を作り上げた。適当にはできないし、プレッシャーもあった。だが、そんな中で高校生がやり切った。「島に来て1番心が動いた瞬間」と彼は語る。「高校生すごいぞ」そう感じた。「これがやりたかったんだなっていうのをその時気づいて」と彼は語る。一方的に勉強を教えるのではなく、生徒と一緒にやることを大事にした。彼自身が興味ないことやめんどくさいことは、高校生にそのまま伝えた。それまではあまり言ってなかったが、「対等な感じで接するようになった」と彼は続ける。それからは、「プロジェクトとかをやりつつ、勉強もやることはやろう」というスタンスで教えるようになり、気が楽になった。

地域おこし協力隊の3年間の任期を3月に終えたが、彼は今年も島に残る選択をした。その理由は「まなびのみなと」の存在が大きかった。島のコミュニティスペース「ミカタカフェ」や「清走中」のイベントなど、「やろうと思ったことを実行に移せるベースがすごく速い」と彼は話す。大崎海星高校と同じように、まなびのみなとのメンバーにも「それやってみればいいじゃん」という許容の空気感がある。高校生の話を聞いて、「応援しています」というスタンスだけではなく、「自分もやりたいことがあったらどんどん新しいことを始められる」という。しかも、仕事は楽しい。「塾だけの仕事だったら多分2年ぐらいで辞めていたかもしれない」と笑う。まなびのみなとの仕事で新しいことを始めるのは、塾の仕事と相乗効果で高校生にもいい影響がある気がする。「やりたいことがまだ結構あるから残っているっていう感じ」と彼は話す。

今の仕事のミッションは「高校魅力化プロジェクトを持続可能にしていくこと」。島で高校生活を送っても、卒業したら8割9割の生徒が専門学校や大学進学、就職のために結局島を出ていく。「いい顔して卒業していく高校生、結構多いなあと思っている」と彼は微笑む。彼自身も今大崎上島で楽しんで仕事をしている。だが、それを一緒にやりたい人がどのぐらいいるのか。大学生のように一度島を離れて、改めてもう一度島で暮らす・働くってどういうことなんだろう。この問いの答えを見つけようとしている。島で大学生のフィールドワークを増やしたり、逆に島の外の大学での活動に島の高校生が参加したり。「もう少し広く、やりたいことをやって、広島で将来暮らすということを考える機会を作っていくみたいなことをやっている」と彼は語る。

結局どこの人も同じようなことをやっていると、今年度から島の外に出るようになってから気づいた。いろんな人と会う機会が増えた。それぞれの地域に特色や人情があり、それに合わせてそれぞれの人が色々な働き方をしている。そんな地域を見るのが、面白く楽しい。

仕事のやりがいの一つは「大学生が島に来て高校生と話すと変わること」だという。来島し、高校生から話を聞き、高校生がやりたいことをやっている姿を直接見る。「感化される大学生が結構いて」と続ける。それが、また大学生にとって何が起こっていくのかを見るのが彼の今後の楽しみだ。将来に対する大きなビジョンがあるわけではないが、この1年で、大学生が滞在できる家を借りたり、大人の居場所を作ったり、その上でどんな変化が起きていくのかを見ていきたい。

彼自身も他の人に対しても「いつでもやめられる」というスタンスでいることを彼は大切にしている。「やめられるって結構デカくない?」と彼は話す。裁量があるとは、1やってもいいし100やってもいいというどこまでできるかを決めるのではなく、それをやらないっていう選択肢ができること。やるって言っていたことを、やらないと決断すること。サッカーからバスケを選んだこと。教育学部だったけど教員とは違う道に進むこと。「やめる」ことが彼の転換期になっていた。だがらこそ、高校生にも「やめていい」というスタンスを示していきたい。

大崎海星高校に進学している高校生の中にはしんどそうな顔をしている子も結構多い。高校生の今、この島で何かやらなきゃという気持ちは強いかもしれない。だが、大人になれば住む場所も付き合う人もいろんなことを自分で選べるようになる。「それってすごい楽しいよ」と彼は語る。今は、大崎上島のこの環境の中で、できることを自分で見つけて決めていくのがマイプロジェクトというやり方をしてしまっているけれど、それを続けなくてもいい。「もっと楽しいこととか、もっとやりたいと思うこと、多分いっぱいあるから、そんなに焦んなくてもいいんじゃないかな」と彼はこの記事を読む高校生に伝えたい。

〜終わりに〜

私が初めて勝瀬さんに会った時には、記事内の喧嘩していた同僚の1人と勝瀬さんは既にみんなが認める仲良しだった。島で共に「高校生のやりたい」をサポートし、高校生の輝く姿を見る過程で、支える大人達もまた一つのチームになっていくのだろう。

高校生のやりたいことを伴走するだけではなく、自身のやりたいこともまなびのみなとで実現している。やりたいことをできる環境は、高校生だけでなく私達の足元にも広がっている。

【ライター紹介】

細川ますみ。東京都出身。地域みらい留学で、広島県立大崎海星高校に進学し、2020年3月卒業。現在、青山学院大学に在学中。高校時代、「みりょくゆうびん局」という高校魅力化を推進する部活動の初期メンバーとして活動した。

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