2022.10.24
  • BLOG
  • EVENT
  • PEOPLE

まなびのみなと人生記事企画vol9松本さん

#Uターン#インタビュー記事#メンバー紹介#人生記事企画#大崎上島#教育

~小学生の時に、図書室で偉人の伝記を読んだ。偉人はすごくて、素敵な人生を過ごしていた。同じくらい私の周りにもいっぱい素敵な人生を過ごしている人がいると思う。~

これは私の周りにいる素敵な人に彼らの人生についてインタビューし、その人生を記事にしていく「まなびのみなと」の記事企画だ。9回目はまなびのみなとの事務局長である松本さんにインタビューをした。

彼は大崎上島町の山尻集落出身。山間で、登校班も兄弟しかいないような小さな集落だった。小中学校を卒業した後、島にある広島商船高専の商船科に進学。卒業して、東京の六本木にある労働組合に就職したが、リーマンショックの影響もあり、出向して貨物線の乗組員として働いた。その後、島にUターンし、母校の先生として5年働いた。それから、山尻集落でシェアハウスを開業、2年前からは島の木江地区でゲストハウスを開業した。現在はゲストハウスの経営も継続しながら、島の観光プログラムや平和公園のNPOの手伝い、神職やまなびのみなとの事務局長など幅広く仕事をしている。

小学生だった彼は、空手を小2から初めて、学校以外のコミュニティが楽しかった。学校も楽しかったが、小2から小3までいつも登校班でいじめられていた。彼のお父さんが彼を助けてくれた。いじめていた子がその後、手紙をくれた。「ごめんね、俺って友達1人もいないんだ。俺、どうやって友達作ったらいいかわからないんだ。本当にごめん。」手紙に、そう書かれていた。「この子にもこの子の背景がある。」それに気づいた時、小学生ながらに衝撃だった。それからその子とは仲良くなった。

だが、将来には悲観的だった。「島は何もないよ」という大人の話がただただ悲しかった。進学した中学校では、中学生ならではのモラトリアルな時期と重なり「頑張ったら恥ずかしい」という雰囲気を感じていた。「このコミュニティにいたくないと思った」と彼は話す。船で島外の塾に行き、受験の年にはとにかく勉強した。人って頑張ってもいいんだと思えた。地元の子が多く進学する海星高校よりも、同じ島内にある広島商船高専に行った方が色んな人に出会えると彼は思い、広島商船高専への進学を決めた。

広島商船高専に入ってからは、元々やりたかった卓球部に所属した。同じ部活の頭が良くて美人な子を好きになった。その子に認めて欲しくて、一生懸命頑張った。同時に、一つ上の部活の先輩が交通事故で亡くなった。人って死ぬんだという衝撃。今の生活が当たり前じゃないことを知った。もっと変わらないと。このままじゃダメだ。それまで以上に、自分を追い込みながら部活を頑張った。勉強もファッションも鍛えた。恋愛とスポーツによって彼の生活は変わった。恋は実らなかったけど、もっとチャレンジしてみたい。まだまだ成長したい。その気持ちが湧き上がった。「海外に行ける会社に入りたいです。」先生にそう言っていた。

そして、東京の六本木にある日本の船や港で働く人たちのための労働組合に入職した。最初の年は、東京で半公務員のような生活だった。17時台に仕事が終わり、物足りなくなって、卓球クラブに時々足を運んだ。若くて田舎出身の彼が珍しかったのか、どこかの区長の奥さんや社長さんなどに可愛がられた。

その後、出向して貨物線の現場に行くことが決まった。初めての現場で、3日で仕事を覚えろと言われた。フィリピン人のクルーと一緒で、「英語も話さないといけないし、毎晩泣いていた」と笑う。だが、段々慣れてきて、仕事をするためにコミュニケーションを取った。段々、フィリピンのクルーとも仲良くなった。運河を通るためには、1週間以上海の上の同じ場所で待つ必要がある。彼らに誘われて、釣りやBBQをしたり、シャワーパーティーをしたり。「自分達で楽しみを作らないと精神的に不安定になる」と船での生活を語る。遊べないとストレスでおかしくなる。ちょっとしたミスでも考え込んでしまう。「遊べないこと=仕事ができないこと」と話す。そんな生活の中で、今まで自分が人生を楽しもうとしなかったことに気づいた。本当に満たされる行為は自分の心の中にある。この時から、「大切なものは全部自分の中にある」が彼のモットーになった。

働きながらも、長男だし、なんとなく60歳ぐらいには家を継がなきゃという気持ちがあった。いつかは島に帰るか、尾道にある地方局で働くか、そんな将来を考えていた。ちょうど次に国内の船に乗った時、すごく意地悪な上司に当たってしまった。周りの人に心配されるほど、理不尽に怒られ、ストレスが溜まっていく。ある日、釧路に着いた時、「海、気持ちよさそうだな」とただそう思った。「これちょっとやばいなって」と当時を振り返る。そんな時、母校の広島商船高専の先生から連絡があった。「現場を知っている人がおらず、学校で少しずつ論文を書きながら教授になりつつ、部活の指導もお願いしたい。」そんな提案だった。自分でもなんとなく東京じゃないことに気づき始めていた。彼がそうして母校の先生として島に帰ってきたのは24歳の頃だった。

「母校が今でも好き」と彼は話す。だからこそ、授業のカリキュラムも現場を見てきたからこそ変えた方がいい部分を見つけたり、部活動も一生懸命教えたり最善を尽くした。だが、運悪く、彼を商船高専に誘ってくれた学校の役員の1人が1年で異動してしまった。最初に言われていた論文を書きながら、教授になることは「仕組みとしてできません」と言われた。すぐに反論したが、決まったことだからと覆ることはなかった。いやいやと思いながらも、ゆくゆくチャンスがまたあるかもと思い、コツコツと頑張ることに決めた。自分が学生だったころの後輩が最上級生となり、まだ生徒として卓球部で頑張っていた。「なんとかして勝たせてあげたい」と卓球のコーチの資格を取得して、教えているうちに徐々に強くなっていった。全国高専大会で3連覇し、インターハイや天皇杯にも出場した。島の中でも「卓球の人だった」と笑う。

5年程経つ頃には、強くなりすぎて、試合のために出張ばかり行くようになっていた。部活が強くなると、県で1番強いぐらいの子達が来るようになった。「自分の枠を超えてくる選手がいっぱいいる」と当時の状況を話す。自分は高校から卓球を始めたが、彼らは小学生の頃からやっている。選手達はどんどん言うことを聞かなくなった。「彼らの方からすると、いやいや俺らの方が知ってるし、でも俺はなんか教えなきゃと思うし」と話す。他の先生からも卓球部はちゃんと指導できてないと言われ、彼が「ちゃんとしないと」と思えば思うほど、生徒は話を聞かなくなっていった。ある日、彼の指示でインターハイに行けるかどうかが決まる試合に生徒が負けた。毎週毎週、そんなプレッシャーをかけた試合に行くのがしんどくなり、「半分鬱みたいになってきて」と振り返る。朝起きると、びっしょりと汗をかいていて、無理やりシャワーを浴びて、朝練を見て、普通に勤務して、夜10時まで練習に付き合って。もう体が限界だった。「ある時、このまま車でぶつかったほうが楽なんじゃないかと思った時に、これダメだわと思って。吹っ切れてサボろって思ったんよ」と話す。2日ぐらいサボっても、生徒は勝手に強くなっていた。「実は一番生徒を信頼してなかったのは俺だったんだな」とその時気づいた。彼が思っているよりも生徒は十分可能性がある。そう気づいてからは、練習も試合も生徒が自分で監督する「ボトムアップ」の手法に切り替えた。もっと彼らは強くなっていった。「大事なメッセージを全部学生からもらった。俺がなんとかしなきゃってやっていたままだったら、俺はずっとすごく偉そうだった。」と彼は振り返る。

その指導は傍から見ると、何もやっていないように見えた。他の先生からも保護者からも、ちゃんと指導していないとクレームが入る。ちょうど、国の政権が変わり、国立である高専も学校予算の削減を求められた年だった。広島商船高専も部活動の予算削減が求められ、力を入れない方針に切り替わっていた様に本人は感じていた。生徒達もインターハイに行くためにやる気を持って頑張っている。学校の先生達に抗議したが、「予算がないから。これは上が決めたことだから」と伝えられた。上司が悪いわけじゃない。「個人はすごくいい人なんだけど、学校の組織ってなるとやっぱそれをやらないと彼はいられないから」と話す。その背景が、小学生の時のいじめっ子と重なった。これ以上はどうにもならないと悟った。

ちょうど生まれ育った山尻集落の孤独死が出始めた時期だった。「2軒3軒とあった家が1軒ボコって空くと、今まで隣同士話していたおばあちゃんが、2軒離れていると毎日漬物配りに行ってたのが行かなくなるんだよね」と当時の状況を語る。話さなくなって、ボケてしまって、空き家もどんどん増加していく。負の連鎖だった。彼の父が「こんな集落に生まれるんじゃなかった」と言葉を漏らした。圧倒的に悲観が漂っていた。「この集落どうしようもない」という嘆きと、学校の上司の「公務員はしょうがないんだ」という声が一緒に思えた。

「なんでそうなるんかなって笑えてきて、なんか絶望的すぎて笑えてくる」と彼は笑う。彼は、田舎でカフェを経営している友達や大阪でシェアハウスをしている友達がいたから、彼自身も空き家を使って何かできるんじゃないかと考えた。その時、彼らの周りの人達はそういう人生に触れられる機会がなかったんだと気づいた。「俺はたまたまラッキーで、友達に経営者もいたし、オーナーもいたし、なんとかなるかもって人生を知っているから、なんとかなるだろって思える。だけど、諦めている人達はそうだよなって時に、空き家を使って色んな人の人生とか価値観が触れ合える場所があったらいいなって」と語る。広島商船高専という場所を手放して、新しいチャレンジをしようと決めた。

学校を退職し、半年間、九州などに足を運び、空き家活用の実践地やゲストハウス、シェアハウス、カフェなどを見学した。最初はゲストハウスがやりたかったが、予算の都合上から、シェアハウスを先に始めてみることにした。起業したのは2014年のことだ。2011年の震災によってエネルギーや食糧自給、生き方について考え直され、島への移住も増えていた時期だった。現在のまなびのみなとの代表理事である取釜さんが島の移住定住アドバイザーをしており、「シェアハウスやるんだって?ランチしよ、ランチ」と誘ってもらい、シェアハウスの初住人も取釜さんからの紹介だった。

シェアハウスを始めて、3年程経った頃から、徐々に人が増え始めた。夏には30人程が毎日入れ替わりのようにやってきた。みんな気を遣ってお酒をお土産に持ってきてくれるが、毎晩飲み会になると住人にも顔は笑っているが疲れが見えてくる。お互いが気を遣う状況になった。「観光でくるゲストと移住で来る住人はちゃんと分けてあげないと、お互いにとってハッピーにならない。」と彼は当時考えたことを話す。ゲストハウスを再度、視野に入れた。また、その後、シェアハウスを5年やって、最終的に45人程が島に移住した。移住者に空き家を紹介していたが、それでも集落の孤独死は相次ぎ、空き家も増えていく。もう少し回転率を、もう少し空き家を使ったことが見える場所を。そう考えた時に、山尻集落ではなく、島内の木江にゲストハウスを開業することに決めた。山尻の静かな集落は大勢の人が来ると、お互いに気を遣ってしまう。木江地区も同様に空き家が多かった。港の近くでアクセスも良く、宿があって人がたくさん来ることで町が元気になる。「一番は空き家をなんとかしたい。」だからこそ、一つの集落ではなく、もっと島全体で、空き家を使って島まるごと楽しんでもらえる活動を作りたいと、2019年、ゲストハウス「庭火」を開業した。

今は、ゲストハウスを運営しながら、神社の神職からまなびのみなとの事務局長まで、幅広く仕事をしている。神社の神職は、ゲストハウスを開業した冬に資格を取りに行った。きっかけは、島で開催される櫂伝馬競漕。櫂伝馬は島の伝統的な14人で漕ぐ木造船で、島の祭りの日に地区対抗で競漕する。その日は、知人に誘われて、ゲストハウスがある地区の練習に行った。満月の夜だった。島の大人達は10年後を見据えて小学生に櫂を漕がす。本当に大事な伝統や地域の大人達との繋がりを、櫂伝馬を通してつくっている。「これって教育だなって思って」と語る。これをやらなければこの子供達は、勉強はできるかもしれないけど、地域のことや、海や船のことは何も分からないまま育ってしまう。普段はしょうもない話しかしないけど、10年後を見据えて、「この子供達をどうするんか」「10年後の船の船頭は誰がするんか」そんな話をずっとしていた。そんな島の男達がかっこよく見えた。だが、その櫂伝馬競漕が行われる木江の祭りをやっている神社の宮司さんが高齢で続けられなくなりそうだった。神社がなくなれば、祭りの機会も減っていく。「この景色や、地域の人がやっていた学びの場を残せたらいいなって思った」と話す。宮司さんの娘さんに「資格を取りに行きます。」と祭りの朝、宣言した。他に資格を取れる人もいなかったし、今の櫂伝馬の祭りをやっている神社の神職になろうと思い、神職の資格を取りに行った。

広島商船高専も、シェアハウスやゲストハウスも、今の仕事も何をずっとやってきたのか。それは「未来を創ること」だった。「どうなるか分からないけど面白い未来を創っていく仲間がいて、広島商船高専も生徒が育って行って社会に出ていくというのは、僕達が想像できない未来を創っていくこと」と語る。広島商船高専時代の部活のボトムアップの手法も、まなびのみなとの事業である「マイプロジェクト」も、大人が想像できなかった成長を見せてくれる。「学生を育てるってことは未来を育てるってこと。いつも未来を見させてもらっている。」と話す。それが彼のやりがいだ。ゲストハウスの宿泊をきっかけに移住したり、色んな生き方を持っている移住者達をみた子供達がもっと新しい生き方を見つけたり、自分が想像できない未来を創っていくかもしれない。「教育を通じて未来を創る。学びを通じて未来を創る。宿もそうだし、観光もそうだし、まなびのみなとも全部そう。」と嬉しそうに語る。なぜ、まなびのみなとに関わろうと思ったのか、それは「教育を通じて未来に関わることができるから」だった。

そんな彼は「人生、最後は船作りたいと思っている。」と話す。やっぱり船が好きで、彼自身たくさんのことを船の中で学んだ。「旅が好きなんだけど、宿とかやっていると出られなくなっちゃう。仕事をすればするほど島から出られなくなっているから、じゃあ俺が動けばいいな島ごとって。それって船だなって思って。」と考えを楽しそうに喋る。人生の最後は、みんなが船に乗って、自分は地球の中で生きているんだって思える環境で、自分はこのために生まれたんだってそんなことを学べる自己探究ができる学校のような、自分のことをみんなで探究し続ける客船を作りたい。効率化され、全部自動でできるからこそ、「私は何したらいいんだろう。何が私は喜びなんだろう。何が楽しくて、何を味わいたくてここにいるんだろう。」そんなことを自然の中で探究できる場をつくりたい。

「まなびのみなとのメンバーと出会えたことがめっちゃ幸せで」と彼は笑った。広島商船高専で働いていた時に、どうしたらいいのか話すことはできても、一緒に実践できる”仲間”といえる存在は僅かだった。今、メンバーと一緒にいることが嬉しくもあり、それがさらに仕事としてできていることがありがたくもある。1人ではなく、10人以上がまなびのみなとのメンバーとしていることも、「それってあり得ないことだともはや思う。普通じゃない。」と語る。繰り返し、「教育って本当に未来を創っていくことだと思う。」と話す。それに対して、本気で向き合うことは辛くもあるし、覚悟もいる。だけど、そんな仲間がいるからこそ、見えてくるものがあって、今やっていることもやりたいなと思える。まなびのみなとのメンバーに対して「出会えて幸せです。」と笑ってインタビューを終えた。

〜終わりに〜

松本さんの人生の厚みがそのままインタビュー時間の長さになった。高校生の時からお世話になっていたが、当時は何をしている人なのか、実はさっぱりわかっていなかった。インタビューを終えた今でも松本さんの全部の仕事はわからないが、「未来を創っているのだ」ということだけはわかる。そんな松本さんと、今、まなびのみなとのメンバーとして関われていることを嬉しく思う。

どんな人にも、私から見えていない背景があると私も思う。これから先も、その見えない背景を想像しながら生きていきたい。インタビューを終えて、改めてそう思った。

【ライター紹介】

細川ますみ。東京都出身。地域みらい留学で、広島県立大崎海星高校に進学し、2020年3月卒業。現在、青山学院大学に在学中。高校時代、「みりょくゆうびん局」という高校魅力化を推進する部活動の初期メンバーとして活動した。

CONTACT

まなびのみなとに関して、
お気軽にお問い合わせください

お問い合わせ