2021.4.14
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まなびのみなと インタビュー企画 ♯3 笠井礼志

〜小学生の時に、図書室で偉人の伝記を読んだ。偉人はみんなすごくて、素敵な人生を過ごしていた。でも、私の周りにもいっぱい面白くて素敵な人生を過ごしている人がいると思う。〜

これは私の周りにいる面白くて素敵な人に彼ら自身の人生についてインタビューし、語ってもらい、その人生を記事にしていく「まなびのみなと」の記事企画だ。3回目は、笠井礼志さんの人生を取り上げる。

彼は、三重県津市出身で、高校までを地元の三重で過ごした。広島大学教育学部に進学し、大学4年生の時に休学をして福島のNPOで半年インターンをする。広島に戻り、東広島の志和町でシェアハウスの運営や寺子屋こんこんという私塾の立ち上げ、経営を行いながら大学を卒業した。その後、大崎上島のコーディネーターに誘われ、大崎上島で公営塾の講師を務める。現在は、大崎上島と志和、両方の土地で教育に携わる。

小中学校時代を、地元の公立学校で過ごした。小学生の時、この指とまれでとまりにいく側の人間だった。友達と遊ぶにいく時も誘う側ではなく誘われる側。人の中心でリーダーになるようなタイプじゃなかった。ただ、チャンスがあればやってみたいと思い、中学2年の時に生徒会に立候補した。結果は落選。自分に自信がなく、グダグダのスピーチだった。だが、中学3年になり再度立候補した時、自分の言葉を話すことが出来た。今度は書記として当選した。生徒会で司会進行を務めた文化祭、全校生徒の前で、先生ではなく自分が考えた言葉で前に立つことがあった。終わった後に、みんなが拍手をしてくれて、後ろから先生たちの「今の上手だったね」と話す声が聞こえた。初めて大勢の前に立って成功体験を得た。「今思えば小さなことかもしれないけど、当時の自分はすごく嬉しかった」と彼は言う。

高校は姉の言う事を聞いてなんとなく選んだ。大学も消去法で決めた。そんな進路選択を思うと、もっと違う選び方をすればよかったと思う。

そんな彼の転換期であり、人生が変わったきっかけは東日本大震災だった。高校3年生の3月のことだった。「高校生の時の自分は受験勉強しかできなかったし、受験が終わった後も友人たちと遊んでいた」と自分を非難するかのように話す。友達の家で遊んでいても、テレビをつけると全て震災特番。友達がチャンネルを切る。「自分は目を背けたなと思った」と当時を振り返る。本当は何かできることがあったかもしれない。だけど、自分は何もせずに友達とゲームをして遊んでいた。

大学に入ってからも、西日本の大学だからほとんど影響がなかった。普通に暮らしていた。授業を受けて、新歓に行って、大学生活を楽しむ。だが、テレビをつけたり新聞を読んだりすると、震災関連死や仮設住宅の情報、悲惨な状況が映し出される。普通に暮らしている自分と、それらの情報との間に大きなギャップがあった。どこか申し訳なさを感じながら、大学生活を過ごしていた。だからこそ、何をすればいいか、何をしたらいいかはわからないが、何かしたいと思っていた。

そんな時、大学の掲示板に、宮城へ行くボランティアの募集が出ていた。すでに行ったことのある友人達から、「色々感じることもあるし、できることもあるからお前も行ったほうがいいよ」と聞いた。行くことを決意して、大学1年が終わる直前の春、初めて宮城に行った。

10日間ぐらいを、同じ大学生のボランティアと宮城で過ごした。仮設住宅に行って、お茶をみんなで飲んだり、一緒に手芸品を作ったり、被災者の方と一緒に話をする活動がメインだった。実際の現場を肌で感じることができた。ただ、半年に一回、バスで学生が20人程度行って、お話をして帰ってくる。これに意味があるのだろうか、と疑問を持った。自分はその活動を離れ、違う関わり方を模索した。(なお、このボランティア派遣は、その後も多くの学生の手によって続き、ある仮設住宅が閉所するまで寄り添って活動した。)

その年の夏、「福島の小学生を広島に呼び、ホームステイしてもらって、思いっきり遊んでもらおう」という活動をしている地域の方々に出会った。「志和」という地域の皆さんだ。2012年は2回目の活動を迎えようとしている時で、学生ボランティアとして手伝った。福島から招待した13名の子どもたちは、最初は少し緊張した様子だったけれど、慣れるとすぐに元気いっぱい校庭を駆け回った。志和のホストファミリーと打ち解けて、もう一つの家族が出来たかのようだった。地域の方々と、子どもたち、そして大学生が、みんなで一緒になって、心から楽しいって思える時間を作ることができた。「初めて経験するような本当に充実して、幸せな時間だった」と振り返る。福島と志和のことが好きになって、その後も、旅行に行ったり、遊びに行ったりした。地域へ、細くても、長く、関わり続けたいという考えが芽生えて生きた。

そんな頃、大学3年生を迎え、教育実習が始まった。必死に教材研究したり、授業をつくったりしながら、「これからの進路」について考えていた。教員は、自分の関わる地域を選ぶことが出来ない。民間企業に勤めるのも、何か違う気がする。地域で関わる人みなが輝く、あの時間をまた作れないだろうか。

答えを模索した結果、大学を休学し、半年間、福島の会津地方にある喜多方市のNPO法人でインターンシップをすることを決めた。カバンを一つ持って飛び込んだ。

「そこでの半年間っていうのが、毎日が新しくて濃厚な時間だった。」と語る。

毎日、いろいろな経験をさせてもらった。喜多方は在郷商人と酒造りのまち。至る所に、蔵が立ち並び、米作りが盛んで、美味しいお酒が出来る。蔵を使って、お店や、教育活動、文化活動が営まれていた。昔から芸術家が滞在し、作品制作をする町だったらしく、当時も多くの芸術家が活動していた。滞在していたシェアハウスには、芸術家や、大学の先生、会社経営者、大学生、等々、個性豊かな面白い人たちが泊まりにきて、飲んで、語らう。彼らの話を聴くのが面白くて、刺激的だった。

そんな喜多方の暮らしから学んだことは、「土地にあるものを受け継ぎながら、新しいものを創っていく」ということ。その土地に住む人達が大事にしてきたものを土台に、自分のオリジナリティを掛け合わせる。そして、唯一無二のものを生み出していく。芸術家だけじゃなく、町の経営者もそんな風に事業をやっていて、オリジナリティに溢れる姿がかっこいいと思った。自分もこんな風に生きていきたいと思った。

失敗もあったし、迷惑もかけてしまったけど、喜多方というまちは自分にたくさんの糧を与えてくれた。「人の幸せを決めるのはコミュニティの豊かさだ」と確信を持った。普段の何気ない人と人とのコミュニケーションだったり、自分達のアイデンティティを皆で守っていくことだったり、そういうことがすごく大事だと思った。それを失ってしまった時に、尊厳や、幸せがなくなってしまうのかなと感じた。「そういうものを大事にしていくってことが、自分達の幸せを作るんじゃないかと思った」と言う。

広島に帰ってきて、志和に住み始めた。知り合いのお母さんたちから、何件かの家庭教師を頼まれた。数人の中学生に勉強を教えていたが、本格的に子どもたちの学習環境を整えようと、寺子屋こんこんという私塾を開設する。この挑戦から生み出せたもの、学べたことはたくさんあったが、一方で、一人で続けていくことの難しさを感じていた。自分のやっていることが正しいのか分からない。同じ志を持ち、磨き合える仲間が欲しかった。そんな時に、大崎上島に出会う。まさに自分のいいなと思っている教育やまちづくりの先進地だった。この島で、公営塾の先生をやることを決めた。

2年間の大崎上島町では、「覚悟と信念を持って旗を立て続ける人と、関係者それぞれの立場を理解し、みなが活きる道筋を付けていく姿勢の大切さ」を学んだ。今は、志和で学んだことを、生かそうと努力している。「自分は喜多方や大崎上島といった地域と出会えて、自分自身が変われたと思うし、生きていくうえで土台になる知識や経験をもらえた」と振り返る。喜多方や、大崎上島は10年、20年も続けてきたものが形になっているから、「自分も10年、20年関わって自分なりにやっていきたいし、これまで教えてもらったことを、表現できる場所や時間を作り出していきたい」と語った。

「自分は高校生の時に、地域に出ることはほとんどなかった。部活や勉強を一生懸命やっていた。それも大事。ただ、一つでもスパイスとして、実際に地域に出て、誰かのために何かをやってみること、やっぱり学校を飛び出たリアルな体験をすることが、普段の生活も面白くすると思う。自分が高校生に伝えるならやっぱり、ちょっとでも何かやりたい気持ちがあるなら、誰かに相談して、チャレンジをしてみてほしい。色々な人との出会いがあり、新しい自分自身を知れたりする。何かやってみたら面白いんじゃないかな」と語った。

〜終わりに〜

多くの人が、東日本大震災の影響を受けただろう。東北の方々が受けた被害と影響、心境を私は、安易に語れないし、語ってはいけないものだと思う。ただ、あの震災があったから、西日本でもこうして地域に関わって、教育という次の世代に繋がる活動をしている人もいる。震災から10年という年の3月に、礼志くんのこの人生を聞けてよかった。彼の創る志和というまちに行ってみたいし、ぜひ訪れてほしい。地域と一緒に暮らす、日本の原風景がそこにはあるのではないかと思う。

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