2023.4.27
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まなびのみなと人生記事企画vol10 伊達さん

#Iターン#インタビュー記事#メンバー紹介#人生記事企画#地域おこし協力隊#大崎上島#教育#離島

~小学生の時に、図書室で偉人の伝記を読んだ。偉人はすごくて、素敵な人生を過ごしていた。同じくらい私の周りにもいっぱい素敵な人生を過ごしている人がいると思う。~

これは私の周りにいる素敵な人に彼らの人生についてインタビューし、その人生を記事にしていく「まなびのみなと」の記事企画だ。第10回目はまなびのみなとで監事を務める伊達さんにインタビューをした。

彼女の出身は広島県福山市。高校まで福山で過ごした。その後、福岡の大学に進学。大学を卒業してから、大崎上島町で、公営塾スタッフとして1年、ハウスマスターとして2年働いた。現在は、東京で官民連携を進める会社のバックオフィスを担当している。

幼少期の彼女は、「とにかく活発な少女」だった。その記憶は幼稚園まで遡る。2歳から4歳ごろまで両親の仕事の関係で、兵庫県西宮市の団地に住んでいた。団地に住んでいたのはたまたま男の子ばかり。プリンセスではなく、ウルトラマンや仮面ライダー。基本的な遊びが男の子の遊びだった。

ある日、仮面ライダーショーに連れて行ってもらった彼女は、「ステージに上がりたいおともだち〜?」の声かけに元気に手をあげて返事をした。それを見て、仮面ライダーの敵のショッカーが彼女の元にやってきて、攫ってステージに連れて行こうとした。彼女はギャン泣き。「自分で手上げたのに、結果怖すぎて、泣きすぎてステージを降りた」と彼女は笑って話す。

小学校に入っても、活発さは変わらなかった。音楽会で1人しか叩けない楽器のオーディションを勝ち抜いたり、学級委員を毎年務めたりした。

中学ではソフトテニス部に入った。顧問の先生は広島県代表の監督をするぐらい強くて厳しい先生だった。彼女の転換期はこの先生に出会ったことだ。いろんなことを伝えてくれた。「すれ違いから始まったんだけど」と彼女は中学生だった時を思い出す。15人いる部員の中の7人と同時に喧嘩していた。ペアの子も、対戦相手の子も、審判も全員喧嘩相手という状況。人間関係で何か起きることが一番しんどいなとその時感じた。「それから絶対に人の悪口は言わないようにしよう」と彼女は決めた。本人に言えないことは裏でも言わない。活発な方だったが、おとなしい子の気持ちもわかるようになったきっかけでもあった。この時学んだこと、何かに一生懸命取り組むことの大切さ、いろんなことを先生に教わり、謙虚に鍛えてもらった。

中学生になっても、高校生になっても、ありとあらゆることを全力で駆け抜けた。体育祭で初の女の団長を務めたり、合唱コンクールで大声で歌ったり、充実した高校生活を過ごした。

大学は、ソフトテニスの先生にお世話になったこともあり、中学の保健体育の先生を目指して、総合大学の体育系学部に進学した。「総合大学で何万人ぐらい人がいて、そこでいろんな人と会えた方が楽しそうだな」と体育大学を選ばなかった理由を話す。

大学では学内外にいろんな知り合いができ、思った通りの生活になった。「考え方的に外部に刺激を求めに行く前に、徹底的に内部で使えるものを使いたいみたいなタイプだった」と彼女は自身をそう分析する。大学2年の夏までに、使えるものは全部使った。1年の夏には東北にボランティアに行き、冬にはアメリカの姉妹校に短期留学した。2年に上がった夏は、北海道に10日間スタディツアーに行き、帰ってきてすぐにベトナムへのインターンにも参加した。どれも各学部から1人か2人の募集だったが、体育学部からの応募は少なく、他学部に比べて倍率が低かった。「いろいろラッキーでそういうのに全部参加できた」と笑う。

その後、徐々に学外にも出始め、東京などにも度々行くようになる。その中で、特別な何かがあったという訳ではないが、大学入学当初の「学校の先生」の選択肢は小さくなった。「あえて言葉にするなら、高校までは学校しか知らんわけじゃん」と彼女は続ける。大学ではいろんな知り合いができて、いろんな街に行って、「東京行き始めたら、東京が面白いって思う」と話す。新しい刺激がいっぱい出てくる中で、「それでも先生になりたいっていうほど、その時のうちは何かその強い思いがなかった」と彼女は穏やかに語る。

就活のためにインターンにも参加した。就活を積極的に取り組む学生が多く応募するインターンに応募し、そんな学生たちのネットワークができ、コミュニティにも所属していた。そのおかげか、内定も貰えた。そのことをベトナムインターンの時にお世話になった方に報告しに行くと、彼女に、「なんでそこに行くの?」そう問われた。上手く説明できなかった。

「その時のうちは、順番が逆かもしれないけど、世の中のためになることをしたいみたいな考えが、どんどん大きくなっていて」と彼女は振り返る。「自分が思いを持って取り組める、社会の柱になるもの」そう問い直した時に、浮かび上がったのが「教育」だった。人にすごく真剣に向き合ってもらった経験を今度は別の誰かに渡したい。大学4年の夏に「教育」を軸に就活を再開した。

そんな時、たまたま「日本仕事百科」で「高校魅力化」を見つけ、「地域×教育」が彼女にマッチした。「そこからいろんな人に話を聞いてもらいながら進んでいったね」と彼女は話す。地元の広島県内で、海に囲まれた離島である大崎上島町で働くことを決めた。

大崎上島での生活を「まず行ってよかったなとすごく思う」と彼女は素直に話す。1年目は公営塾「神峰学舎」で塾の先生として、様子を伺いながら過ごした。「気づいたら1年過ぎたって感じ」と笑う。2年目から寮が新設されることになり、1対1で生徒と向き合う塾ではなく、寮のような集団の場で働くことを選んだ。「教育に関わるものとして、自分の関わったことで誰かを変えたいみたいなのを思ったことは1回もなくて。それよりも私の知らないところで何かがいろいろ生まれていくことが面白そうだった」と彼女は語る。

新しい寮の立ち上げ期だった2年間、ただいろんなことをひたすらやっていた。この2年間の寮の「ハウスマスター」は島で1番勉強になった。寮生とのコミュニケーションを取りながら、ファシリテーターやコーディネーター、イベント企画のようないろいろな側面をもつ仕事だった。寮は家でもあり、暮らしの場。学校や塾でも様々な機会がある大崎海星高校の寮で、いろいろやることが必ずしもプラスにはならないと感じ、明確なゴールや目標を作らずに、「ただ一緒に日々を過ごす」存在になった。

「集団に携わる中で、多様性があるとは苦しさも伴う難しいことだという実感、当たり前だけど、それぞれの大切なことも嫌なことも違うから」と彼女は語る。彼女自身の在り方も、落ち込んでいる人は元気ハツラツな人には相談しにくいからこそ、「私が落ち着いた状態であることがまず1番に大事」と彼女は教えてくれた。日々、寮生と関わる中で、日常は繋がっていて、目の前で落ち込んでいる子はその裏に何かがあったかもしれないこと。だからこそ複合的に考える必要があること。寮生と関わる中で、「自分自身が相手に対してどう思っているか、相手をなんとかしようとしていないか、なぜこういう言葉を相手にかけようとしているのか、何度も自覚する必要があった」と彼女はハウスマスターを振り返る。「こんな観点を持ったというのが大事な気づき」と彼女はハウスマスターとして学んだことを伝えてくれた。

私生活では3年目になって、農家女子などの自分と同年代の友達ができ、さらに島に居場所ができた。

大崎上島での3年間という地域おこし協力隊の任期を終え、次の職を探した。「ハウスマスター」という仕事は、「面白いと思ってもらえるけど、最終面接までいっても、何ができますかって聞かれてもうまく答えられなかったりした」と彼女は話した。転職活動を続ける中で、別の高校でハウスマスターをしていた方が、東京の会社のバックオフィスの仕事を紹介してくれ、採用された。「繋がりがそういう機会を運んでくれた」と彼女は笑う。

「東京に先に行っていたら、それこそ島に行かなかったかもしれない」と彼女は教えてくれた。地域や人の顔が見える距離というのも興味がなくなっていたかもしれない。だからこそ、「逆に最初に島に行ってそういう経験とか繋がりがいただけて、結局東京に行って、その二つを体験できているっていうのは、居場所がいっぱいあるってこと、それはすごく健やかなことだなって」と彼女は思いを語る。

一方で、「最初から東京で働いていたら、いわゆるビジネスマンになれていたのかなと思うときもある。何かそういうことが欠落している感覚はある」と彼女は話す。友達と喋る時も、普通の企業で働いていないから喋ることがなかった。「でも、誰かが困ったときにうちもできる仕事、できることがあって、それを使って助けられるような人になりたい。何か面白いことが始まりそうだみたいな可能性を感じられる人でありたい」と話す。「そのために何で力を得ていくかは考えなきゃいけない」と彼女は穏やかに話した。

島を離れ、東京で暮らす彼女はシェアハウスに住んだり、旅行に行ったり、充実した生活を送る。ワーケーションが可能だったこともあり、「日本中を訪れた」と笑う。1年ちょっとの間に、47都道府県中、30県ぐらいを回った。「意識して旅行が好きだとか思ってなかったけど」と話す。海もいいし、山もいい。どこに行っても美味しいものがあり、それぞれの地域の特性がある。日本はいい国だと、旅行に行ってさらに感じた。

この先の将来、「今まで出会ってきた人達に後ろめたさを感じずに生きていたい」と彼女は語る。これが彼女のベースにある。どういう状態だったら、後ろめたさがないのか。「多分、うちが生き生きと生活していることだと思う。たいへん自分勝手だけどそう思って」と笑う。趣味もないし、飽き性。いろんなことをすごい長く続けるのは苦手だけど、やったことないこと、行ったことないところ、見たことないことへの期待はたくさんある。「命をちゃんと使い尽くしたいな」と彼女は語った。

また、彼女のルーツは福山と福岡、大崎上島、そして東京にある。「今まで関わりのあった場所で、それぞれ何かお仕事できたら1番いいな」と話す。関わってきた人と一緒に何か仕事がしたい。「今は裏方。前に出て進めたり、裏で支えたりを繰り返しているから、自分で小さくても何か始めたい、と思うかもしれない」とこれからに思いを馳せた。

大学生の時であれば、彼女は自分のことを「「仲間を募って前に進んでいく、一生懸命な人間」だって言っていたと思う」と話す。しかし、今はそうではない。「多分寮にいて、これをやろうと思ったときにその裏側のこととかも考えるようになって」と理由を話してくれた。寮にいたら、こうだと思う人がいれば、そう思わない人もいるというのが浮き彫りになる。そこに絶対の正解があるわけではない。

今の彼女は「適応能力はあると思う」と自分を評価する。リーダーもするけど、誰かを支える役もする。都会でも住めるけど、田舎でも住める。みんなでいるのも好きだけど、1人でも楽しめる。何か成果が出せるという訳ではないけど、どんな役割でもそんなに辛くない。彼女の「適応能力」は、島で働き、その後東京で働いてから気づくことができた彼女の新しい強みだ。

彼女は、お世話になった人に感謝を伝えることを大事にしている。島にいた時はこれまでお世話になった人に20件ぐらいみかんを送った。東京に次の仕事が決まった時も、何十人と報告をした。親から大事にしなさいと言われたのもあるが、先述した「後ろめたくなく生きたい」というのが理由だ。

そして、もう一つ大切にしていることは「自分の納得感を大事にすること」と彼女は教えてくれた。

自然体だとよく人に言われる彼女。無理に何かをしなきゃというのがあまりないそうだ。「正直なところ、語れる日々を今生きているわけじゃないかな、マイペースなんだと思う」とそう笑いながら答え、インタビューを終えた。

〜終わりに〜

私が大崎海星高校に通っていた3年間は、伊達ちゃんが大崎上島にいた3年間と綺麗に被っている。私は同級生だった寮生の友達と、「伊達ちゃんが寮にいてよかったね」と何度も話している。それほど、伊達ちゃんがハウスマスターだった寮は安心感があった。伊達ちゃんは語れる日々じゃないと言うけれど、そんなことはないと私は思う。

大変なこともあっただろう島生活を経て、東京で力強く、楽しそうに生きている伊達ちゃんをこれからも応援したい。

【ライター紹介】

細川ますみ。東京都出身。地域みらい留学で、広島県立大崎海星高校に進学し、2020年3月卒業。現在、青山学院大学に在学中。高校時代、「みりょくゆうびん局」という高校魅力化を推進する部活動の初期メンバーとして活動した。

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